Chief Scientific Officer
Chief Scientific Officer
イギリス・イーストアングリア大学Ph.D. カナダ・アルバータ大学ポストドクトラルフェロー。 理化学研究所環境資源研究センター研究員を経て当社参画。 理研時代は、スサビノリ(紅藻)の塩耐性メカニズムの研究や、植物のセシウム蓄積を変化させる化学物質の単離などで表彰を受ける。
ICU(国際基督教大学)に進学して当初は化学を専攻し、有機合成など学んでいました。中学2年生の頃からずっと化学をやろうと思っていたのですが、大学1年生のときに受けた生物学講義に触発され、生物学の魅力を知りました。
化学って、「化学式があってコレを入れるとコレができる」「何℃にするとコレができる」そんなハッキリした世界なんです。研究されてない部分もあるんですけれども、割とクリアカットにモノができる、「入れてないものは入っていない」「思ったものと違うものができたなら、なにかが間違っている」という論法なんですね。
それに対し生物学は、未知が多いんです。私が大学に入学した1998年時点には、DNAの解析も終わっていませんでした。“わからない”“未知である”と書いてある教科書はすごく新鮮でしたね。化学の教科書は「××反応というのはコレとコレを入れる」と答えが書いてあるのに対し、生物学の教科書は、おもしろい現象はあっても「それがなぜだかわからない」と。
そこで生物に転向することもできたんですけれども、先生に相談すると、「せっかく化学をやろうと思ったんだから、化学の基礎をつけて卒業してから生物学に転向した方が強い」と言われました。そこで、アドバイス通り大学は有機化学を専攻し、卒業してからイギリスの大学院に進学しました。
日本ですと、普通はマスターを取ってからPh.Dに行くというコースなんですが、私は分野を生物学に変え、国も変えて、当然言葉も文化も変わって、さらにPh.Dから入学したんです。日本ではマスターを持っていないとPh.Dには入れないのですが、イギリスでは審査を通れば入れてしまいます。分野違いの、英語もきちんと話せない状態でしたので、今考えれば若さというのは無謀だなと思います。今だったら怖くてとてもできません(笑)。
ですので、当時は非常に苦労しました。言葉がわからないのか、分野がわからないのか、何がわからないのかがわからない状態だったんです。しかも、私は血が苦手なので、生物学の中でも“血が出ないもの”が良いという……。植物が大好きだった私は、生物学の中で植物学に進みました。
3歳から5歳の間はスイスに住んでおり、高校三年生の時に一年弱カナダへ交換留学をしました。その他はずっと日本でしたが、やはり幼少のときにスイスの自由な雰囲気を感じていたからか、一般的な日本人の子供とは少し違っていたようです。
今は帰国子女っていっぱいいますけれども、当時はまだ海外に日本人がいるというのは珍しくて。
お正月に、スイスの街を着物を着て歩いていたら交通が止まって、みんなが窓から顔を出して見るくらい、東洋人を見たことがない人もいるような場所、時代だったんです。
日本から見ても海外に行って帰ってきたなんていう人は、成田まで親戚がお見送りお出迎えにくるくらい、すごく珍しかったんですよね。
それから約20年、海外へ行くことは珍しくない時代になりましたが、当時の選択理由をひと言で言えば“自由と成長を求めて”というところでしょうか。
研究は楽しかったものの苦労も多く、文化的な違いや価値観の違いから体調を崩してしまったんです。研究者になるかどうしようか迷った時期もありましたけれども、やはり研究が好きだなと思い、イギリスでPh.Dを取ったあとにカナダに行きました。そこでは、針葉樹の研究をしていました。大型プロジェクトに参画していましたけれども、そのプロジェクトが終了するときに契約も終了ということで、職を探すことになったんです。
ちょうどそのとき、日本の理化学研究所にポストが空いており、そこに応募して日本に帰国することにしました。
2011年、一度カナダに帰って移住する支度をしているとき、東日本大震災が起こったんです。その震災に非常に心を痛め、自分に何かできないかなと思いました。
理研で就任したのは「カリウム」の研究をする研究室でした。カリウムは植物や動物にとっての栄養素ですが、「セシウム」もカリウムと同族の元素であり、似たような物理化学的性質を持っています。植物が間違ってセシウムを取り込むという性質は知られていましたが、この性質を利用して、農地にばらまかれてしまった放射性セシウムを取り除くことはできないか、また、農作物にセシウムが取り込まれないようにするにはどうしたらいいかといった研究を始めました。
さらに、陸上植物の多くは津波の影響を受けて死んでしまい、土が塩分を含んでその後作物が育たなくなるという問題もあったんですね。一方、同じ植物でも、海藻は塩の多いところに住んでいて、塩の影響をどうにかしているメカニズムがあります。その海藻のメカニズムを知ることによって、陸上植物に塩耐性を持たせるような何かができるのではないかと海藻の研究も始めました。海藻は海の中の手の届かないところにありますし、ラボで栽培するのも容易ではなくなかなか学術的研究が進んでいないため、当時の理研でも新しい分野でした。
理研での研究も8年を過ぎた頃から、そろそろ次へ移ろうかという気分になりました。いわゆる「2023年問題」といって、来年度に大量に理研から研究者が解雇されることが確定した年でもありました。学術研究では理研からのサポートもありましたし、良い研究をいろいろとさせていただいて、論文もずいぶん書きましたけれども、そこで終わってしまっていたと感じていたのも大きな理由です。自身の研究が震災復興の一助になればと思っていたのですが、研究者の努力で実地に効果があるようなことをするのが非常に難しいと感じたんです。
アカデミアを続けて、若い人たちに教えていくのも一つの貢献だとは思いましたが、「自分の手でも何か社会に還元していくことが、“会社”でならできるのではないか」と考えたんです。ただ、会社となるとアカデミックなレベルの研究が難しくなるので、「どちらか」になってしまうとしたらどちらを取るかという葛藤がありましたね。そんななか、弊社の社長に「アカデミックなレベルの研究もしていける」と言われ、思い切って転身しました。
転職活動を始めたとき、企業で研究職は本当に皆無でした。
とりあえず転職サイトに登録してみたものの、紹介されたのは化学製薬会社や試薬会社の営業など、「科学の知識がないとできないが研究ではない」というような仕事でした。
海外にも行ったし、Ph.Dも取ったし、長い間学生をやっていていろいろと勉強したのに、私の技術や経験は無意味だったのだろうか、社会に求められてないんだろうかと、すごく落ち込んだ時期がありましたね。
そこでICUの卒業生で、同じ自然科学科で生物学をやっていた友人に相談をしました。その人は「リバネス」という会社の初期メンバーで、学生の頃から研究室の先輩後輩で起業され、研究者の欲しい企業と、研究職が欲しい研究者とをマッチングする事業をやっているんです。そのリバネスに行って初めに紹介されたのが「ガルデリア」でした。
その頃ガルデリアは、研究員は1人しかいないような、まだ本格的に活動が始まっていないような状態でした。そのとき会社のことは知らなかったのですが、温泉紅藻を使って金属を集めているという話を聞いて、まるで私が理研でやっていた海藻の研究と、陸上植物を使ってセシウムを集めようとしていたプロジェクトの2つを融合させたような「ドンピシャのが来たぞ」というのが第一印象でした。
当時、八広にあった研究設備を見せていただいたとき、あまりに設備の整っていない状況に驚きはしましたけど、「これから大きくなっていきます、ちゃんとしたラボに移ります」というお話でしたし、アカデミックなメカニズム解明などもやっていきたいと言われましたので、ここだと思いました。
転職について、私が理研にいた頃にセンター長をされていた篠崎先生という方にも相談しました。「小さなベンチャーで先行きはわかりませんけれども、どうでしょうかね」と相談したら、「今は大手でも潰れる時代で、どこにも安心安全な就職先はないけれども、スタートアップのところで頑張れば上を目指せる。おもしろいんじゃないか」と言っていただいたことも、ずいぶん力になりました。総合的に考えて、ここにしようと思いました。
今はマネジメントの方の仕事がおもになってしまって、なかなか自分で実験することは少なくなってしまいました。人の結果をレビューして直したり、結果が出てきたら次の実験を考えたりする仕事がおもになってしまっていますね。
今までは何をしてきたかといえば、まずガルディエリアを大量につくらなければ売れませんので、ラボが開設してから1000 L規模の培養で月産200 kgを達成していくにあたり、どういうやり方でそれを達成していくかのプランニング、出てくる実験結果のレビュー・改善をしてそこに到達しました。あとは金属吸着の部分ですが、都市鉱山からの金属回収、それぞれの事業者のニーズに合わせたシステム改善、ASGMからの金採掘のシステム立案、また当初は自分でも実験をしていました。今はもう後進に譲って、私は結果が出てくるのを待っていることが多くなっています。
今は国の事業に応募していますけれども、これが通れば海外展開をして、現地の金鉱山に行き、弊社のシステムがワークするか検証するというステージになります。現在はその現地検証前の段階で、ラボでスモールスケールでできる検証を行っています。金属吸着は表面だけ使いますので、今のところ内側は無駄でしかなかったのですが、食べたり塗ったりできる、有用な物質がいろいろと入っています。まずそれが使えそうかどうかから、製品開発に向けても基礎的なところを研究しています。
上下関係が曖昧なところです。
例えば、マスターの学位だけ持って、25歳ぐらいで入社した若く優秀な研究員がいるのですが、彼が何か「こういうことをしたい」と提案してくれば、「マスターしか持っていないから言うことを聞かない」というような風土はまったくないんです。みんなが納得するような合理的な提案をしてくれば、じゃあやろうとなりますね。そうしたフットワークの軽さや、変な上下関係がないところはすごくいいなと思います。
私が転職してきたもともとの意義でもありますが、「この研究が実社会につながるだろうなという展望が持てる」ところも良いと思います。研究って、研究者一人がどんなに優秀だろうと、個人でできるようなものではなく、場やシステムがないとできないんですね。アカデミアですと良い機械もそろっていて、論文もいっぱい書けるかもしれませんが、なかなか実地につながっていかないものなんです。一方、小さくても「企業」となると、利益を上げないと会社が回っていかないという現実的なところもあり、何か形にしていこうという推進力、勢いのようなものを感じられます。ですので、自分の研究成果が何か社会的に還元されるんだろうなという展望はたしかにありますよね。
アカデミアの研究成果を国が積極的に還元していくパイプはないように見えます。例えば、COVID-19ワクチンを見てもそうですけれども、イギリスやアメリカが早かったのは、国が研究者たちを有効に使って、「これが今一番必要だから、いっぱいお金出すから、どんどん人を雇って頑張ってつくってください」といったんですね。急いで頑張ったというよりは、このようなバックグラウンドがあったからこそ、まったく新しい「RNAワクチン」という、今まで使われていなかったような形のワクチンを開発できたわけです。
自由な発想が生まれて、そういうものにお金をかけて、その中にはまったく形にならなかった研究もあったと思いますが、湯水のようにお金を出して、その中から使えるものが1個できたのであれば、「それを良し」とするような国主導の強いイニシアチブみたいなものが日本には不足しているかもしれません。
また、“見えないバリア”もあります。国内外で差があるかはわかりませんが、「アカデミア至上主義」のような考え方があると思います。「アカデミアが正で、民間企業というのは利潤を追求する外道な研究」という考え方が今でも根強く残っています。
ただそれが一概に悪いというわけではなく、アカデミアって、自由研究を楽しんでいる少年がそのまま大人になってしまったような方がたくさんいます。自分の研究に興味を持ってもらったらうれしいし、「貸して」と言うと喜んで分けてあげるから使ってというような、オープンな雰囲気があります。利潤が発生してないぶん、それを分け与えて他の人が利潤を受けようが気にならないというような感じですね。
私の大きな夢としては、「企業でもアカデミアレベルの研究はできる」ということを発信していくことです。高いレベルの研究を出していけばアカデミアの人も認めざるを得ないのではないかなと思っています。そうして、企業とアカデミアの壁をとっぱらっていければ、お互い手を結んで尊重して、いいところを取りあって進んでいけるのではないかなと。それを実現したいですね。
アカデミアにいらっしゃる方の中には、外に目を向けられない方や、他の世界に踏み出すのが怖いという方もいらっしゃると思います。また、「企業の研究なんてたかがしれている」と思っている方も少なくないかもしれません。
「企業にはアカデミアレベルの研究ができていない」と思うのであればこそ、「自分たちが変えてやろう」とぜひチャレンジしていただきたいです。アカデミアの経験とご自分の研究成果が社会に還元されていく過程を、自分の目で見届ける——という楽しい経験ができます。「企業の研究」のクオリティの高さを示していけるような仕事を、一緒にできたら楽しいと思います。
あとは、特に女性ですね。うちは今女性研究者が私1人なので、ぜひ女性の研究者も来ていただけたらうれしいです。この世代になると子育て世代の方が多いので、子育てが一段落してまた戻ってくる方でもいいですし、ぜひそういう方に来ていただきたいです。